第1章 人間中心のテクノロジー choiyaki
2023/3/15 第1章読了。2読目に進む。
以下、1回読んでのメモ。
p028.人間の知の大部分はアーティファクトを作る能力から来る
p029.たぶんそれはテクノロジーの発展が偶発的だったからだろう。
テクノロジーは、進化と同じようなもの。何か変化が起き、淘汰され、偶然残る。
p036.テクノロジーが人間中心の考え方でデザインされない限り、ヒューマンエラーの発生は減らないし、エラーが起きた時の影響も小さくならない。そう、人間はまさにエラーを犯すものなのだ。だからこそ、テクノロジーはこのよく知られた事実を考慮に入れてデザインされなければならないのだ。
テクノロジーは、人間中心のデザインなら味方になるし、そうでないならあんまり存在の意味がない。
人間はエラーを起こす存在なので、それを織り込んだデザインにしないといけない。
p042.テクノロジーというものはわれわれの思考や文化的生活を支援するが、同時に生活のある一面を意図的に重視し他の面を無視する考え方をもたらす。重視するかどうかはその真の重要性にとるのではなく、今日のツールで科学的、客観的に測定できるかどうかという恣意的な条件によるのである。
測定できるものが重視されるという視点。そこを重視されると、おそらくエラーを起こす人間中心のデザインにはならず、エラーを考慮に入れたものではないものが出来上がってしまう。
2回目読みながら考えたことをメモ
p006.人の生き方に対して機会中心の態度を知らず知らずのうちにとるようになってしまった。人間側よりテクノロジー側の要求に重点をおき、われわれの方が機械のサポート役となることを強いる。
この構図は、いろんなところに見られる気がする。
人間が計測することで傾向を知ろうとしていたはずが、計測できるものを重視しすぎるようになったり、
お金を得て、ほかのやりたいことに資金を使うはずが、お金を得ることが目的になったり。
大事や、便利や、使いやすい、わかりやすい、、、そういった感情を抱かせるもの・ことを、人間は知らず知らずの間に中心に置きがちなんやろう。
p024.アーティファクトのテクノロジーは人間の知識と知的能力の拡大にとって重要である。
p024.テクノロジーは人間を奴隷化してしまうこともある。
知的能力の拡大を担うこともあれば、生産的な営みから遠ざけてしまうこともある。著者は、結構テクノロジーの負の側面を危惧している。でも、楽観的だそうで、テクノロジーの肯定的な面は否定的な面を上回っていると考えている。
p028.私は、人間の知の大部分はアーティファクトを造る能力から来る、と主張している。
これまで多くは物理的なアーティファクトによる発展やったろう。紙とそれに書き込む筆記具とか、活版印刷とかも。電卓もコンピューターも物理的なアーティファクト。それらは今もどんどんと発展してる。
一方で、メンタルなものの貢献も多くなってきて、どちらも発展していっている、というのが現状ではないか。認知心理学の発展とか脳科学の発展など、人間の内側に起こっている事柄に対する理解が進むにつれて、メンタルなものをうまいこと使えるようになっていると思う。
著者のいうアーティファクトの表す範囲が広いので、この主張は妥当やとは思う。これは、アーティファクトが何を指すか、どの範囲のものを指すのかによって真偽は変化し得る。
つまり、本書においては、人間の知の大部分がアーティファクトを造る能力によるものと考え得るくらいに、アーティファクトの表す範囲を広く想定している、と捉えておけばいいのかな。
p029.たぶんそれはテクノロジーの発展が偶発的だったからだろう。
テクノロジーは、進化と同じようなもの。何か変化が起き、淘汰され、偶然残る。
偶然、自然発生的に発展してきた道具を専門的に作る人が出てきて、作られた道具に熟練する人も出てきて、そうやってアーティファクトが人間の発展に寄与していく。で、
p030.一つ一つのテクノロジーは人間の能力を高め、それによってさらに多くのテクノロジーが造られることになる。そしてそれがますます多くの修得すべきスキルと、訓練、高度な専門化を必要とするようになった。
次に「認知のためのテクノロジー」と書かれてるけど、ここでの話は人間の認知的な側面についての話なのか?
物理的とメンタル的とアーティファクトを二分してるけど、どちらかの話をしているのか?それとも両方の話をしているのか?
ここでしているのは、アーティファクトがもたらす"テクノロジー"についての話。アーティファクトは物理とメンタルがある。けど、
p024.アーティファクトのテクノロジーは人間の知識と知的能力の拡大にとって重要である。
と述べてるように、テクノロジーは人間の知識と知的能力の拡大に影響する。だから、認知のためのテクノロジーと述べているということか。
p030.私の目標は、こうした認知のためのテクノロジーがどう人間の心と相互交渉するかということについて普遍的な理解を進めることである。
「相互交渉」とは。テクノロジーと人間がお互い影響しことという理解でいいのかな?
p034.機械中心の見方では欠点となる行動も、人間中心の観点では長所となるのである。
人の心に合わせねばならないのに、機械中心の見方をするのは適切ではない。
p035.悪いのは機械中心のやり方でふるまうことを人間に要求するテクノロジーのデザインにある。
機械に合わせる、のではなく、エラーをしてしまったり、注意力が散漫である、機械中心に見たら欠点となる部分を考慮に入れてデザインされるべき。だから、
p036.私の目標は、認知に関するテクノロジーに対して人間中心の見方をしていくことである。ここでのテーマは反テクノロジーではなく人間擁護である。
人間中心の見方をしながら、認知に関するテクノロジーがどう人間の心と相互交渉するかということについて普遍的な理解を進める、ということか。
人間中心な見方をするためには、人間に対する理解、特に人間の不得手なところとか欠点に見えるようなところとかをわかっておかないといけない。
p039.われわれ人間は考え解釈をする生物である。心というものは常に説明を探し、解釈し、仮説を立てようとする。能動的、創造的、社会的存在なのである。他者との交流を求める。機械とは異なり、他者が要求していることを理解しようとして自分の行動を変える。これら自然に備わっているすべての傾向が、効率を追求する工学的アプローチによって妨げられてしまうのだ。
だから、人間中心で見ないことには、テクノロジーと人間の心との相互交渉が生まれない。
p042.つまるところ、テクノロジーというものはわれわれの思考や文化的生活を支援するが、同時に生活のある一面を意図的に重視し他の面を無視する考え方ももたらす。重視するかどうかはその真の重要性によるのではなく、今日のツールで科学的、客観的に測定できるかどうかという恣意的な条件によるのである。その結果、科学とテクノロジーは測定されたもののみを扱いがちになり、自らを現実世界から隔離してしまうのである。
真の重要性は、測ることのできる外側にある。が、それをどうやって判断するのかの、その判断材料はあるのか。測ることができるハード・サイエンスに対して、測ることのできないソフト・サイエンス。おそらくどちらがいい、というわけではなく、どちらも必要なのであろう。
p042.私が危惧しているのは、新しいツールが思いもよらぬ方法で、思考の代わりに体験を受け入れるよう仕向けてきたという点である。
体験的認知と、内省的認知。これはシステム1とシステム2とほど同義でいいか。この2つに分けるのは危険(人間は複雑な存在なので、2の要素から行動がわかるわけはないので)。でも、違いを浮き彫りにするメリットはあるので、ここからは2つの話題に入っていく。
体験的認知に訴えかけるようなものの方が、おそらくは金になる。よく稼ぐことができる。
やはりここでも、測ることのできるものが重視されている。体験的認知の方が、測定しやすく、内省的認知を測定するのはとても困難。だから、体験的認知に訴えかけるものにベクトルは向かう。
p045.体験モードがもたらしてくれる楽しみの裏には危険がある。当事者をそそのかして、思考の代わりに混乱した行動をさせてしまうのである。
システム1、2の話でもあったよね。システム1の意見をシステム2はそのまま受け入れることがままある、と。そそのかすわけですね。、で、理性的な行動からとざけてしまう。これをどう取り戻すのか。
著者は、内省モードに入ることができるよってのを今後ではいうのかな?
代理体験でしかなく、能動的な参加の置き換えにはならない。学びの重要な要素である能動的関与ではなく、だから進歩をもたらしてくれないということが述べられてるのか。